むぎ茶の資料室

いままで書いてきたものを残していきます。

生を実感する性癖

小学生の頃の私には誰にも言えない秘密がありました。学校帰りに、近所のマンションの裏でおしっこをすることです。誰にも見られていないかをしっかり確認し、死角となっている一階のベランダの縁の下でしていました。自分の生暖かい水がアスファルトに黒い跡を残しながら広がっていく様子を見て、最高に興奮していました。

この性癖に大か小かはあまり関係なかったかもしれません。ただ大のほうが沢山汚した感が出るからか、より興奮できました。パンツやズボンにそのままお漏らしみたいに排泄することにも大変興奮しました。

そしてこの性癖だけは、何がきっかけだったのか全く思い出せません。私は特別トイレトレーニングが上手くいかなかった子供でもありませんでしたし、それで怒られた記憶もありません。ただ今でも野外で放尿するだけで充分にオナニーが成り立つぐらいには好きなままでいます。本来用を足すような場所以外で排泄するだけで大変興奮します。こんな場所でしちゃいけないのに、汚しちゃうのにという感覚が興奮を後押します。昔書きましたが、この性癖のせいで聖水が苦手だったりもします。

私は「汚す」という行為自体が好きです。自分の出すもので物や相手を侵食していっているような感覚がします。その対象がいまはマゾに変わっただけですね。なので、聖水自体は本来好きなはずですが、好きな反面変に興奮してしまったり、意識してしまって出づらくしているのが現状です。



支配欲でいつも思い出すエピソードがいくつかあります。

小学生の頃七夕のお願いに「なんでも思い通りになる道具をください」と真剣に短冊に書き、担任の先生に「そんなものがあったら、人生面白くないでしょう。書き直しなさい」と怒られました。なぜそんなことを先生が言うのか、全く理解できなかったため「世の中のしんどいことやつらいことを回避できるのに、なぜダメなんですか」と担任の先生に聞き返すと、また怒られてしまいました。

高校生の頃は三年間ずっと委員長を務めました。その理由はもちろん、いい子ちゃんでいることに徹したのもあるのですが、根本的な私の目的は「全部把握しておきたいから」でした。文化祭などで全体の予算や納期を知らないまま、曖昧な働かされ方をされるのが大変気に食わなかったのです。自分に決定権がなく、不透明な理由で誰かに働かされるのがすごく嫌でした。

これらのエピソードは全て、当時の私が主導権を手に入れたかったことをあらわしています。子どもながらにして、人生の主導権を手に入れたくて仕方がなかったように思います。

そこまでして何かの主導権を過剰に欲するようになるぐらいに、私は自分の人生を決定できない環境にいました。

さらに自他の境界線が曖昧で、「周りが望むから、こういう進路でいなきゃいけない」といった強迫観念がありました。

なので常に何のために生きているのか、誰のために生きなきゃいけないのかを考えているにも関わらず、そもそも「自分の意思というものが本当に存在するのか」が分かりませんでした。そんな薄っぺらい自分がいつか誰かに急に消されてしまいそうで、常にしっかりとした姿でいなければと肩に力を入れ、誰に何を聞かれても完璧な対応ができるように、様々な問題に対して事前に答えや主張を用意していました。なんか書いていて、思春期の私つらそう~ってなりますね。

そんな当時の環境が如実に反映されたのが、「自分の排泄物で汚したい」という性癖だったのだと思います
。衣服や床を汚すことで「私はここにいるんだ」というのを深く実感していました。

私は排泄自体に関しては性的興奮を覚えますが、おしっこを我慢すること(通称おしがま)が好きなわけではありません。冒頭で話したようように、床に広がる自分の排泄物を眺めたり、"いま汚している"という感覚に大変興奮します。自分が床やマゾたちを侵略していっているような気分になっています。いま確かにここに生きている証を残し、生を実感しているといっても別に過言ではありません。

話が混乱すると思ったので積極的には書きませんでしたが、この性癖にはそういったドミナント的な要素だけじゃなく、認められるべきではない(本来してはいけない場所で排泄する)自分の解放場所という役割もあったと思います。この性癖の発現時期などは不明ですが、いずれにせよ、苦しい状況にいる子供の頃の私が、救いを求めて足掻いた結果だということには違いありません。


皆さんの持っている性癖も、もしかしたら過去のあなたが足掻いた跡なのかもしれません。

何か思い当たる人は沢山書き出したり、理解してくれる人たちとのお話やプレイを通して、今までの頑張ってきた自分を労わってあげてくださいね。