むぎ茶の資料室

いままで書いてきたものを残していきます。

醜いおとなたちへ

これまでに私が性癖について全部きちんとお話したことはありません。この日記を出すことについても幻滅されないか心配で、大変迷いました。でものらりくらりと避け続けるのは嫌なので、一度ここできちんと書こうと思います。もし良ければご覧ください。



よくお話しているので、このことについて知っている方も多いと思いますが、私の性の目覚めは女性の出産シーンです。

女性器から子供が生まれてくることなんて、物心ついたときにはわかりませんでしたから、分娩の様子を見て、色んな大人に囲まれて女性が踏ん張りながら何かを出すという認識をすることしかできていませんでした。

ただ大人の女性が悲鳴をあげ、それをみんなに見られるなんて、なんて恥ずかしい行為をしているんだろうと思い、その姿は性器をもろに見るよりも私にとっては「本当は誰にも見せてはいけないし、誰も見てはいけない姿」でした。なのでドラマなんかの出産シーンがリビングで流れると、濡れ場のシーンが流れているかのようにとても恥ずかしい気持ちになって、家族の前では目を逸らしていました。

そして一人きりになると、それを録画したシーンを何度も何度も繰り返して見て、自分の頭の中のアドレナリンが出るのを感じていました。いま、悪いことをしている、見てはいけないものを見ていると思っていました。


あまり書きたくないのですが、私は母親が異常に厳しく、悪いことをしてしまうと数時間正座をさせられた後に、自分が悪かった点を述べさせられていました。母親の言ってほしい謝罪の言葉を5時間ほどかけて探り当て、その後数時間、長い文章を暗唱しながら土下座をしなければいけないため非常に苦痛でした。

また母親は精神病持ちで、そういうことを子供たちにさせた後に私達の前で、泣きわめいたり、頭を扉にぶつけたりして、赤ちゃん返りをするのがいつものパターンでした。

 

その様子はとても異様に、気色悪く私の目に映っていました。

母親の厳しすぎる躾の影響で、幼い頃の私は、大人は神様と同等の高位の存在であると思い込み、絶対的に言うことを聞かなければならないと思っていました。

なのでそんな"完璧な大人"が大きな声を出して泣きわめいている姿を見た瞬間、私の頭の中では「これは見てはいけない、変だ」という警鐘のようなものが鳴り、頭の中が混乱していました。


だから、女性が悲鳴を上げながら大勢の大人に見守られながら何かを出している出産シーンを「これは見てはいけないものだ」と認識することになり、頭の中の混乱がいつの間にか興奮にすり替わっていました。

子供の頃は頭の中でずっと女性が出産するシーンを何度も思い浮かべて興奮していました。セック/スというものを知ったのはその何年も先で、エロ本であられもない姿で女性が喘ぎ声を出すのを見て「ああ、なんだ。出産じゃなくてやっぱりこういうのがあるんだ。大人はいいな、みんな本当はこういう発散先を知ってたんだ」と妙に冷静に受け止めていたのを覚えています。その後、普通にセック/スなどの一般的なえっちなことも好きになっていきました。


いまでも私はそんな大人が常軌を逸している姿全般に興奮します。大人なのに泣きわめいたり、甘えたり、情けない姿で腰を振ったり、NG以外のものは大体好きでいます。また排便シーンに興奮するのもそのせいで、出産シーンを思い出させるような排泄を見たり、自分がそういう排泄行為をすることに興奮します。

こんな汎用性の高い性癖が根底にあり、それを楽しめているからといって、母親に感謝することは決してありませんが、私の性癖には十中八九そういう特殊な家庭環境が影響しています。


自分がしっかり自立するようになる前、まだ子供の自分が抜けきらず、意思決定ができなかった10代から20代前半の私は、自分が泣き喚く側になりたいと思っていました。

それを実現させるために、昔はSMプレイを用いて、自分の悲鳴を録音してそれを聞き返してたくさん濡らしていました。プロのSの方に「こういうことをして泣きたいです。よろしくお願いします」といってお金を払ってプレイを頼んでいました。(撮影→それでオナニーするという過程は今も昔も変わりませんね。)

変態の自覚は充分にあれど、最初Sの自覚は全くありませんでした。というかS側に立ったところで、どうやったら自分の見たいものを実現できるのかを想像することができませんでした。

なので年齢を重ねてある程度のプレイの経験を積んでいくことで、男性が自分だけに見せてくれる変態な姿に興奮したり、他人のお世話をしてあげたいという気持ちが増していきました。
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また、あらゆる面で精神的にも金銭的にも何者にも頼らず自立することができるようになると、子供の頃に出産シーンで興奮していたように純粋に「悲鳴をあげて苦しむ大人の姿を見たい」と思うようになりました。

その後、マゾと出会って、「男性をコントロールしたい」という自分の気質を自己受容することができ、それをうまくプレイで発散できるようになって、より一層SMや痴女プレイが楽しくなりました。


やっぱりM側の気持ちもわかっておいたほうがいいよなという思いで、最近改めて何度かプロのSの方にプレイをお願いしてみたのですが「ああ全然昔と違うな」と感じました。

少し前の日記「生を実感する性癖」でも書きましたが、私は総じて主導権を握る側でいたかったこともあり、M役をやっていた頃よりも、コントロールする側でいるほうが、そのままの自分でいることができるのでとても楽しいです。


私は精神的な虚弱性からくる「何かをぶちまけたい」「発散したい」「泣いてしまいたい」という負のストレスと、悲鳴の性癖を結びつけてM役をしていただけで、本質的には全くマゾではなかったなと思います。

今はもう何も深刻なストレスや降ろしたい荷物もないので、加虐を受けても「痛いなあ」と思うだけでした。

昔M役をやっていたときも、Sの方にやることを事前にお願いして、プレイ中の自分の悲鳴に興奮しているだけで、相手にコントロールされること自体は大変嫌っていました。

今振り返ると、「やって」って言ったプレイを相手がやってくれるのを楽しんでいただけの薄っぺらいエゴマゾだったな、マゾでも何でもなかったなと思います。そんな当時の私にプレイをしてくださったSの方には今でも大変感謝しています。


子供の頃からのぐちゃぐちゃとしたものが片付き、いまは大分クリーンな気持ちでプレイをしています。今後の自分の性癖も色んなものからの影響を受けて多少なりとも変化していくと思います。なので20代半ばで自分の性癖の根幹を決めることはできませんが、間違いなく私は変態で、コントロールする側のほうが自然体でいられます。



このような私の経験から、女性でも男性でも精神的な虚弱性からくるMの性質を持つ人には、まず自分を許してあげることや、休みを取って自分自身を労ることをオススメしています。


SMで健康になるのではありません。SMは一時的な感情リセットしてくれるだけで、実生活を変えなければ生きづらさは変わりません。自分には自分しかいないため、甘えを捨てて誰かに依存することをやめ、1人の人間として自立することを覚悟しなければいけません。

ですが自立できたその先には、それ相応のSMの楽しさが待っています。自立できて普段は素敵なはずの人が、情けなくなったり、支配的になったり従属する姿を見られるプレイは、何者にも変えられないぐらいに甘酸っぱくてドキドキしますよ。


またSMは人生を変えてくれませんが、自分の性癖と向き合うことで、過去の整理をさせてくれたり、自分の人間性の成長を感じることができます。

どうか普通の生活を頑張って、自分自身を沢山認めてあげて、その上でプレイをしましょう。迷っている人は沢山言語化して、私と一緒に整理をしましょうね。

SMプレイをする全ての人が幸せになることを願っています。